首刈り族の楽しみ
Mimi 2017.11.27
数年前、東京藝大の成人講座でテラコッタを受講した。最初にモデルさんをデッサンして、そのデッサンを元に粘土で頭を作り、それを焼いてもらうのだ。 受講する際に先生の講義が最初にあるのだが、心に残った言葉がある。
テラコッタは、千年でも残るのです。あなたたちが、作品を壊して土に埋めたとしても、千年後の人が、それを組み立てなおすかも知れません。
わあ、えらいことになった、と思った。千年経っても、鑑賞に堪えうるものを作りたい、という意欲が湧いた。だが、実際には悪戦苦闘の連続だった。 まず、わたしの創作意欲を刺激するモデルではなかったので、気にいった作品は作れなかった。だが、そのことが反って、もっとまともな作品を作りたいという気持ちを掻き立てた。
自分が気に入った人をじっくり作りたい。幸い私の陶芸教室の先生は、美術大学の出身なのでアドバイスを仰ぐことができるし、教室の窯で首を焼くことも出来る。
そこで、私の首狩り人生が始まった。ああ、この人の頭を作りたい、と心の底から思う人が現れると、お願いして、デッサンさせて貰い、写真も撮らせて貰う。自分なりに制作の期限を決めなければだらけてしまうので、10月に毎年行われる陶芸作品展に出品するのを目標にすることにした。テラコッタは一度低温で素焼きにするだけなのだが、粘土が乾くのにかなり時間がかかるから、7月半ばには完成させる必要がある。だから、完成までの時間を逆算して、制作しなければならない。
首を作るというのは、単にモデルの顔の凹凸を追いかけることではない。もちろん、正面の、どの部分から側面に回り込んでいくのか、眼球がどのように顔に嵌っていて、それを瞼がどのように覆っているのか、などは重要だ。作る時には、人体解剖図を見ながら、筋肉や骨の位置をチェックする。骸骨の模型を使うこともある。私は、骨格をまず作り、小さな粘土のお団子を二つ作って、眼球として眼窩に押し込み、徐々に肉を付けて行く方法を取る。最初は坊主頭で作って、後から髪を付けたすのだ。
だが、そのような作業が進んでくると、ある時点で、「その人」を私がどう捉えているのか、どう思っているのかということを自分に問いかけなければならない時が来るのだ。写真の輪郭をなぞっただけでは、どうしても表現できない、モデルの個性が作品から放射されなければ、納得のいく作品ができない。
指先で粘土を付けたり押し込んだりしていると、「あっ、これこそ彼女だわ。」と思う瞬間がある。制作途上の雑に粘土を付けただけの時にそれが起こると、このイメージを壊さずどんどん進められたらいいのに、と強く願うのだが、それはかなわない。「ああ、彼女だ」と思う人物が、粘土の中から生まれたり、消えたり、を何度も繰り返して終盤に向かうのだ。
今年はハンガリー人のドリスを作ることにした。ドリスは、快く承諾してくれ、写真も撮らせてくれた。 ところが、首づくりに取り掛かろうとすると、困ったことが起こった。ドリスの写真はどれも口を大きく開けて笑っているのだ。口を閉じたところを作ろうとすると、頬や口回りの筋肉の位置が変わってしまう。頬の筋肉が上がると、目の位置も変わる。結局口を閉じた写真は2枚しかなくて、わたしがドリスを見た印象を思い出して作るしかなかった。 チャレンジングという言葉があるが、まさに今回はチャレンジングだった。ドリスを知る誰もが彼女だと認識できる首を作り、更にドリスの人となりも表現したい。
しかし、それが難しいのだ。どこをどう変えたらそうなるのか、が分からない。それに、制作している時にドリスを知る人は私しかいないので、誰にも相談できない。制作期限は刻々と迫る。あせって冒険をしてみると、せっかくそれまでかなり良いところまで進んでいたのがパーだ。元にも戻しようがない。また新たなチャレンジが始まる。
だが、それが首狩り族の楽しみなのだ。ケーキをこしらえるように、材料をきっちり計り、手順に沿って捏ねて型に入れて、一定時間焼くと出来上がり、なんていうのでは面白くない。
今年も、ああ、もう間に合わないかもしれない、と不安になったある日、突然目の前の粘土の塊がドリスになった。ああ、ドリス、と声をかけたくなってしまうドリスがそこにいた。ほーっとする瞬間。もう模索しなくてよいのだ、という安堵感とともに一抹の寂しさ。もうこれ以上は手を入れられないのだ。これが私の求めていた最終型なのだから。
10月の日本橋での展覧会は無事に終わった。そして、私はまた首狩り族に戻った。来年には、初挑戦で男性を作るぞ。わくわくしながら、粘土を20キロ注文した。